鞭との出会い
その鞭とは、いくつかの偶然が重ならなければ、出会うことは無かったのだと思う。年の暮れも押し迫った2009年12月。主と常用しているホテルの一室に入ったところ、黒いソファーの片隅にその鞭はあった。以前SMホテルだったそのホテルは、諸事情により今はその面影もなく、かろうじて梁があるばかり。有名なSMホテルのアルファインとは異なり、鞭やその他SM道具は以前より部屋に常備されていなかったので、何故鞭がそこにあるのか、最初は良くわからなかった。
状況から想像するに、私たちの前にその部屋を使った人が偶然鞭を忘れ、その場所が黒いソファーの上だったため、掃除の人も偶然見落として、私たちの前に鞭が現れたのだろう。靴べらのような形をした革の中に芯が入っていて、とても良くしなるその鞭は、革の縁がところどころ剥げていることから、かなり使い込まれたもののようだった。主が試しにご自分の腕を打ってみたところ、スパーンと良い音がして、その音を聞いただけで気持ちが怯みそうになる。ご自分の身体のあちこちで試し打ちを終えた主が、鞭を片手にニッコリと笑った。
お付き合いを始めてすぐの頃に主が買った乗馬鞭はもう何年も出番がなく、打たれるのは主の手か、まとめた麻縄というのがこの頃の定番。久しく鞭で打たれていなかったため、好奇心と恐怖心がせめぎ合う。いつものように緊縛から始まったSMの時間の途中で主が鞭を手に取ったことは覚えているけれど、縛られてベッドの上で打たれたのか、それとも立たされたまま打たれたのか、もう記憶にはない。覚えているのは、肌に吸い付くような鞭の感触と、痛みで追い詰められた記憶だけ。
部屋を出るとき、口には出さなかったけれど、鞭を持って帰りたい欲求が無かったといえば嘘になる。後から聞くところによると、主も同じ気持ちだったという。でも、いくら忘れ物とはいえ、人のモノを持って帰るのは当然良くないこと。それより何より、あそこまで使い込んだ鞭をなくしてしまったら、その持ち主はどんなに悲しむだろう。忘れた立場に自分を置いてみると、その悲しみの大きさは想像に難くない。ちゃんと持ち主の元に返るよう願いを込めながら、ハッキリと忘れ物であることをアピールするよう机の上に鞭を置き、その部屋を後にしたのだった。
後日談。帰宅してから、私はあの鞭をネットで必死に探していた。当たりをつけていたSM革製品の店に取り扱いは無く、探すこと2晩。とあるネットショップでようやく見つけたその鞭を、主は買って下さった。ところが、届いた鞭は忘れ物の鞭とは似て非なる感触。堅い革に堅いエッジ。少しでも芯を外して打つとエッジの跡が蚯蚓腫れのように残る。それでも使い勝手が良かったのだろう。それ以来、鞭の登場回数は飛躍的に増え、主とのSMの時間に鞭が出てくることは定番化されつつある。
あれから1年以上使い込んだ鞭は、エッジの硬さはとれたものの、最初に出会ったあの鞭のしなやかさにはまだ到底適わない。それでも回数を重ねるうちに、徐々に身体に馴染むようになってきた。どれほど使い込めばあの鞭に追いつけるのか、主と二人で楽しみにしている。
ギャップ
その日、お会いした時から、主の携帯にはひっきりなしに仕事の電話がかかってきていた。最近は昼夜関係なく電話が来るんだ、という言葉に嘘はなく、朝は6時半に電話で起こされ、夜は0時過ぎにもかかってくるところを目の当たりにすると、さすがに睡眠の質が心配となる。ここのところずっと体調があまり良くない、というのも頷ける。
電話がやっと一段落したところで、ようやくSMの時間となった。高く上げた両手首は格子に括り付けられ、片足を梁に吊られ、柔らかな部分を剥き出しにされる。主が片手でいとも容易く潰す乳首には激痛が走り、潰したままでギリギリと指をすり合わせるように捻られると、痛みで声をあげてしまう。目隠しをされた状態での鞭の最初は、いつも恐怖で身体の力を上手く抜くことが出来ない。数発強く打たれるだけで、危機が訪れたと身体が認識するのか、手の平と足の裏から一気に汗が噴き出る。打たれた場所が火照り、柔らかな部分も満遍なく熱を帯びる。時々、その場所に主の手が添えられ、その手の感触が大きな快楽となる。痛みで追い込まれ、戻され、を繰り返し、その痛みですら気持ち良く感じるようになった頃、唐突に主の携帯の着信ベルが鳴った。
フワフワしていた思考が地に落ちるように、一瞬にして我に返る。主は電話には出ず鞭打ち続けていたけれど、先ほどまであった目隠ししていても伝わってくる主の熱い気配が急速に落ち着いていくのが手に取るように分かった。このまま続けていても、先ほどの電話が気になるだけ。そう思った頃、ゆっくりと縄が解かれ始めた。
身体を支えていた手首の縄が解かれ、ずるずると畳に膝をつく。ひりひりする内股をかばうように四つん這いで丸く蹲る。目隠しの手ぬぐいが耳を塞ぎ、自分の呼吸がいつも以上に大きく聞こえる。主が電話をかける気配がしたので、息をそっと潜める。さっきまで私を激しく鞭打っていた主とは別人のような、穏やかな声が聞こえてくる。電話先のお相手は、裸で縛られた女が足下に蹲っているだなんて、夢にも思わないのだろう。と思うと、荒い呼吸が電話口に聞こえないように必死になる。息を詰めれば詰めるほど、主の穏やかな声とのギャップが大きくて、それだけで感じてしまう。こうして足下でただ蹲っている、この状況が気持ちいい。
電話を終えた主は何事もなかったかのように、再び鞭を取り、四つん這いのままの私をいとも簡単にまたあちらの世界へ引き戻す。追い詰められ、畳からはみ出て床に額をなすりつけ、私はとても幸せだった。
トイレの約束
「トイレには一緒に行く」という唯一に近い約束をして以来、外出時を除き主と過ごす時間に一人でトイレに行くことはほとんどない。有無を言わせない命令ではなく、長い時間をかけて心の底から「一緒にトイレに行くことが嬉しい」という気持ちに変わっていくきっかけとなった約束。2度目にお会いした日に伝えられたこの約束は、6年目を迎えた今でもずっと続いている。
数年前までは夜中にトイレに行きたくなったとき、そっとベッドを抜け出して独りで行くこともあった。ある時、何かの切っ掛けでその話をしたところ、「夜だって起こしてくれて良いんやで」と言われ、とてもとても驚いた。せっかく寝ているのに、面倒ではないですか?とお聞きしても、「面倒ではないよ。起こしてくれた方が嬉しい」とにこにこ顔。それから何度か夜中に起こしても、眠そうな目をこすりながらも「さ、行こうか」と起きて下さる。一度でも「独りでいっておいで」と言われたら、きっとその後は二度と起こすことができなくなってしまう。言葉だけではなく、こうして常に行動で示してもらえることで初めて、「面倒ではない」という言葉が真実であることの重みを増す。
トイレではお互いに全裸のことがほとんど。便座に座った私は、前に立つ裸の主のお腹に腕を回し、横顔をピタっとつけるのが定番のポーズ。主の手は私の肩に置かれたり、髪を撫でたり。数本だけある主の胸毛が私の鼻をくすぐり、「抜いていいですか?」「いやいや、そっとしておいてやって」という会話もいつものこと。直接顔を見て話すときは、お腹に顎を載せて主を見上げる。肌の温かみを直に感じ、主の下にいるこの距離感は本当に心地が良い。
いつものようにホテルのトイレで、主のお腹にしがみついていたときのこと。「いつかぼくがいなくなった後も、めありはトイレでこの時間を想い出すのかな」。主の何気ない一言を認識した瞬間、涙腺が一気に崩壊した。主は定年まで、もう指折り数えるほど。親子ほど年齢が離れている私にとって、「いつか主がいなくなった後」というのは、主の病気が再発した日以来、決して想像できない未来ではない。
そんなつもりで言ったんやなかった、本当に悪かった、ごめん、と何度も繰り返しながら、泣きやめない私の頭を撫でる主の手からぬくもりが伝わってくる。この温かさに包まれて、たくさんの時間を過ごしてきた。そして、これからもたくさんの主との時間が待っている。トイレで排泄を見てもらうことが幸せな時間になったように、時間と共に幸せに変えられていったことの全てに、主の気持ちが溢れている。
いつか、主がいなくなった後も、私はきっとトイレで主との時間を想い出すのだろう。そして、その想い出す頻度は、いつしか緩やかに減っていくのだろう。でも、こうして過ごした時間が色褪せるわけではない。私にとって、トイレにいるのは神様ではなく、主の気持ちだから。
『ぼくのもの』ではないSM関係
奴隷、玩具、ペット、おもちゃ、便器etc. 主従関係にあってもなくても、SMの関係を結んでいるボトム側を示す言葉として、そのような言葉をよく見聞きする。現実での扱いはそれぞれとしても、二人の関係性において、精神的な意味で「上の立場の者が下の立場の者を所有する」ということが共通項になるだろうか。
主は私のことを『ぼくのもの』とは言わない。直接的な甘い言葉を下さることの少ない主のこと、そう思っていても口に出さないだけと長い間思っていたのだが、先日主との会話の中で「めありを『ぼくのもの』とは思わないし、そういう言い方は好きではない」とお聞きしたときはさすがに驚いた。
以前、奴隷ではない主従関係の境地に至れずまだ悩んでいた頃、主が私のことを「奴隷ではない、ぼくのM女」と言って下さったことがある。けれど、今、よくよく話しを聞いてみると「ぼくに(自らの意思で)従うM女」という意味合いであり、そこには所有するという考え方は含まれていない。女性をモノ扱いするのが好きではない、実際にモノ扱いできるとも思えない、「お嬢さんをぼくに下さい」なんて絶対嫌やもんなぁ、という主からすると、モノ扱いすることに魅力を感じない、ということが全てなのだと思う。
振り返ってみると、その考え方の片鱗は以前から見受けられた。まだお会いする前から「仕事や社会活動をしながら、魅力的な女性でいて欲しい」と伝えてくださったことも、主従関係を理由にした制限は何ひとつないことも、全てはここにつながっているのだろう。
そんな折、Au fil des nuits-夜めくり記で【犬か猫か】のエントリーを読み、あぁこういうことだったのだ、と改めて気づかされた。ただ盲目的に従うのではなく、自立した一人の人間として魅力があると同時に、自らの意思で従うことができる女性。さらにエントリー中のAutelさんの言葉を借りるならば、「従属を支える基盤としての独立・自由の重要性を理解し、それを維持でき、その矛盾の中での戯れを生きることのできる女性」。このようなM女性を求めるS男性は、数多くはないけれど、きっと一定数いるのだろう。そして、私がこれに当てはまるかどうかは別にしても、主はそのような「従うこと"も"できる存在」を好むし、だからこそモノ扱いをしない、ということが腑に落ちたのだった。
『ぼくのもの』という言葉は、とても甘い響きを持つ。現実での実現方法はともかく、精神的に所属する先があるという誘惑は危うい魅力を秘めている。『ぼくのもの』として丸ごと抱きかかえられることに、実は今でもほんの少し憧れる。だけれど『ぼくのもの』でなくても、私は自らの意思で主に従う存在であり、主は自らの意思で私を従える存在。少しの心許なさを伴う『ぼくのもの』ではないSMの関係は、見渡す限り果ての無い土地を、長いリードで駆け回っているようなもの。リードの先端が霞んで見えなかったとしても、その先が主に繋がっていることを私は知っている。
涙
最終の新幹線。色とりどりのお土産を持った沢山の人がいるホームで、掠めるように柔らかなキスを貰い、人の流れの一番最後について、振り返りながら列車に乗り込む。見送られる側はデッキに立ってドアが閉まるのを待つ、というのが主と私の暗黙のルール。今回は私が見送られる側。ギリギリまで主の手を離したくないので、乗り込んでからドアが閉まるまでは1分ほど。周りの音で声が聞き取りづらいので、ジェスチャーを使いながら会話をする。『ありがとうございました』『着いたらお電話をします』。口と身体をいっぱいに使っての会話が途切れると、泣き笑いのような表情になってしまう。早く出発して欲しいような、して欲しくないような。この時間はいつもとても長く感じる。
発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。ドアに身体を寄せて、窓枠越しに主の姿を目に焼き付ける。そこにはいつもと同じように笑顔で手を振っている主の姿。私も強く手を振る。何かを伝えてくださるように口が動いているけれど、もう言葉は分からない。『またね』『気をつけて』そんな言葉を想像する。
ゆっくりと新幹線が滑り出す。主は少し早足で、手を振りながら同じ方向に歩いて下さる。少しでも長く顔を見ていられるように、私も窓に顔を押しつける。遠ざかっていく姿は、スローモーションのよう。コマ送りで時間が過ぎていく。
荷物を網棚に上げて指定された窓際の席に座り、ひと心地付く。出会ってからの4年間で、主は10回以上の転勤を繰り返している。今回も、何度目か分からない引っ越しを手伝い、主は西の部屋に戻ってきた。でも、一月もしないうちに、今度は北に転勤となる。距離が広がる度に涙にあけくれていた私も、ここ2年ほどは、転勤と聞いて泣くこともなくなっていた。また遠くなってしまうのか、と苦笑い交じりの溜息が出てくるだけ。人は距離に慣れる。それなのに。
新幹線の窓を流れる夜景を見ながら、主と過ごした数日を想い出す。夜中までかかって部屋を綺麗に掃除したこと、車いっぱいの荷物を積んで引っ越しをしたこと、SMホテルで何度も吊りをしたこと、蝋燭で悲鳴を上げたこと、とっても美味しいクレープに偶然出会ったこと、水族館でたくさんの写真を撮ったこと…。まだ鮮明な記憶たちばかり。
気が付いたら、涙が下瞼いっぱいに溜まっている。止めよう思う間もなく、次から次へと零れていく。椅子に深く腰掛け、顔を窓に向ける。窓ガラスの流れる夜景に重なるように映っているのは、困ったような私の顔。声は出ない。だた涙だけがとまらない。
意思の力で涙を抑圧することを諦めて、そっと瞼を閉じる。眠ってしまう頃には、きっと涙も止まるはず。涙の理由も、距離のことも、記憶を辿ることも、考えること全てを手放して涙に身を任せる。新幹線は走り続けている。
Debriefing
お店を出たのは、シンデレラが灰かぶりに戻る時間を超えていた。主には帰ることだけを伝え、翌日の夜、時間をとってゆっくりと電話で話をした。「洋服を脱がないこと、女性にのみ身体を委ねることをボーダーにしました」少し緊張をしてそう伝えたところ、主はそんなことはもちろん許容範囲だというように、可笑しそうに笑った。私なりに主を規準として考えて出したボーダーラインは、主のそれのずっとずっと手前だったらしい。
「こんなことしたら、主様に怒られるでしょう」お店にいたのは、ほんの数時間だったのに、途中何度もそう聞かれた。その度に「いえ、許容範囲だと思います」と答えていたのだが、限度を知ろうと問いを投げかける人にとって、その答えは期待していたものと違っていたのだろう。余りに度重なったので、最後に「今まで、私のとった行動について主から怒られたことはありませんから」と伝えると、思いっきり怪訝な顔を向けられた。なんて甘い御主人様なのだろう、きちんと調教をされているのだろうか?という言外の言葉が聞こえてくるように感じられたのは、気のせいでは無かったと思う。
主の主従観は、主に出会うまでに私が知識として持っていた主従観とはかけ離れている。懲罰の類は全く無く、同時に褒美という手段もとらない。主という立場から圧をかけることもない。「いやです」「できません」、幸いにもその言葉を使ったことはないが、主が望むことに対してそう伝えたら最後、主はあっさりと主張を引っ込めるだろう。いやがることをしても面白くはない、というスタンス。苦手なことがあれば、根気良く出来るようになるまで手をかけること醍醐味があるという。
他の男性とセックスをしたとしても、それがめありを手放す理由にはならない、とは以前より伝えられていた。もちろん、積極的に推奨されているわけではなく、あくまでも私の自由意志に基づいた行為の話だけれど、最初は主の意図するところが全く分からなかった。でも年月を少し積み重ねた今、その考え方は少しずつ私の芯に馴染んできている。主と私との関係が強く結びついているのなら、そして主という存在を心に置いての行動なら、それは全て主の許容範囲なのだ。
「楽しかったのかい?」電話口で主にそう聞かれて、言葉に詰まってしまった。もちろん、楽しくなかった訳ではない。だけれど、主がいない場所で誰かと向かい合っても、結局は自分自身と対峙することにしかならなかったこと、そこにいない主を強く感じる結果になったこと…自分の抱いた気持ちを乱暴な言葉で壊してしまわないように、心地よすぎる言葉にして装ってしまわないように、注意深く取り出しながら、主と言葉で向かい合う。
主は先を促すことなく私の話を聞いた後、気持ちを聞かせて下さった。同じ時間、同じ場所にいなかったとしても、その時感じた気持ちを共有する、そのことに意味があるのだということを。主と私の主従関係は、こうして積み重ねられていく。
対峙
フェテッシュバー、SMバー、ハプニングバーetc.様々な名前がついているそのような場所に、初めて足を踏み入れた。誘ってくださったのは旧知のS男性のO氏。煌びやかな街で3年半ぶりにお会いして食事とお酒を楽しんだ後、「行くか?」と問いかけられた言葉に私は頷いた。楽しんでおいで、と送り出して下さった主に恥じることは何一つ無い。私が主の従であることを忘れない限り、主はすべての経験を肯定的に捉えて下さる。その一方で、主は何も禁止をしない。主の従として、主の目の無いところで晒して良い姿がどこまでなのかを自分で線引きをしなくては・・・そんなことを考えながら、どこまでも続くような暗く急な階段を降り続けた。
薄暗い店内には、客である男性が1人とお店の女性が数人いた。ボンテージやビスチェにガータ姿の女性たちを目の当たりにし、目のやり場に困ってしまう。この子には他に主がいて・・・と説明をするO氏の声が遠くに聞こえる。主がいるにもかかわらず、主ではない男性とこのような場所に来るM女性は珍しいのだろう。「今日はご主人様を忘れて遊んじゃうの?」という無邪気な問いかけに、はっと我にかえった。
「主はいつでも心の中にいますから」そう答えた私を、女性は不思議そうな顔で見つめる。あぁ、信じられていないんだなぁ、ということがすぐに分かったけれど、それも仕方の無いことだと思った。なぜなら、私自身、この気持ちが上手くつかめていないのだから。確かなことは、ここにいない主の存在を強く感じていること、ただそれだけ。それをどう言葉にして良いのか、私は未だにわからないでいる。
O氏につけられた首輪は、黒くて幅が広く、鋲がついたものだった。それは私にとって首輪ではなく、首にまとわりつく革という以外の意味はない。それでも、リードをつけられ、S女性に引かれて四つん這いで歩かされると、顔を上げられないほどに恥ずかしい。入れられる檻までの距離はわずか数メートルほど。人の視線を痛いほど感じ、息苦しくて呼吸が浅くなる。暖かくも無遠慮な視線に晒されることで、身体が熱くなっていくのがわかる。
檻の扉が閉められ、切り取られた空間の中、そこにいるのは私だけで、そこで対峙しているのは自分自身だった。主のいないこの場所では、周りの喧噪も、私の身体に触れるS女性も、常に気を配って下さっているO氏も、全ては自分自身と対峙する鏡のような存在となる。主とのSM行為において、常に感じるのは主の気配であり、心にあるのはいつも主の存在だけれど、主のいないこの場所では、私の心を委ねる相手は、自分自身でしかない。
檻から出され、S女性のかける麻縄が手早く身体にかかったとき、縄の心地よさを感じると同時に、冷静にこの状況を客観視している自分自身がいた。高手小手の腕に巻き付けられる回数、縄の継ぎ方、胸に回す強さ、テンポの良い縛り方・・・どれをとっても主とは違うことが新鮮であり、さらに頭をクリアにする。たまたまこの一瞬に出会った刹那的な関係で、お互いに手探りの縛りだけれど、私に向けてくださるS女性の意識をありがたく受け取り、心ではなく身体を縄に委ねていく。主の縄とは質が違う気持ち良さ。ここに主がいたなら、きっとニコニコしながら見ていてくださるんだろうなぁ、そんなことを考える余裕があるほど穏やかな気持ちで、部屋の真ん中、片脚吊りで太腿に食い込む縄を心地よく感じていた。